己のブログでまじめな話がつづくのがあまり好きではなく、16歳のときに人生ではじめて経験し、同時に最初で最後となった脱衣麻雀ゲームの話でもしようかと思い立ったのだが、

  • さすがに生々しくて女性の方がドン引きしてしまわないか
  • しかしいかがわしい話に手を染めた時点で男性向けに振り切ったつもりであったのにいまさらかい

といった葛藤があって、「ううーん」と悩みながら妻に脱衣麻雀の話をしているうち、別の方面へ頭が向かった。

 

直近で更新した『35歳になった感慨をただ己一人のために綴る』で偏屈の話を書いたのだが、そもそもあんなに長々と書くつもりはなく、35歳になった感慨を自分なりに整理するつもりの文章だったので、どうも中途半端になってしまった。話も散ってしまったしよくない癖である。

書いたあと、「いや、偏屈について、違う感覚になってきたことを、もっとこう、書きたかったんだよな」という思いに至ったので、書く。

 

読み直していただくような文章ではないので簡単にまとめると、

「偏屈」と自分のことを評する人間(私)は一定数いるけれども、「私はこういうとこ偏屈だから直さないとな」といった反省の意味合いではなく、「私は偏屈だけど? それは私が私にしか存在し得ない確固たる軸を有しているからで? それはやむなしみたいな? そんな私ごと受け容れてみたいな?」といった誇るような意味合いで言われることが多々ある

みたいなことを前回書いた(意訳のためだいぶ改変している)。

 

そのあと、私は最近「自分って偏屈なんだな」と感じたとも書いた。

もともと、私がはじめて自分を偏屈だなと感じたのはだいぶ昔である。癇癪持ちで、よくわからない原因で突発的に怒り出し母や家族の手を煩わせていた思春期(中学生)のころにはそれを自覚していた。

あとになれば迷惑をかけていることも自覚していたのに、その「偏屈」には、後者の誇るような意味合いが多分に含まれていた。

 

自分が特別だと思っていた。大して、特別ではなかった。それに気づいてからも、認めたくなくて、自分の中の偏屈さをよりどころのひとつにした。

性格を改善することも、特別になるための行動を積み重ねることにもそれほどの精を出さず、ただ「偏屈」という自覚を自分を守るためだけに利用した。

 

一方、偏屈偏屈と書いているが、私は比較的人当たりのよいほうだと思う(自称が信じられなければ話半分で構わない)。

それは、自分が偏屈であることを自覚しながらも、同時にそれを人に見せるのは嫌で、みんなから好かれたかった、浮きたくなかったからどうにかいい振る舞いができないか研究したことに由来する。

「偏屈」であることを自身を守るために利用していたくせに、人に「偏屈」と思われ嫌われることはおそれた。

 

そんなふうに、私の中には「偏屈」を誇る気持ちも嫌がる気持ちも存在していた。

ただそれが、35歳にして、ようやく向き合い方が少し変わってきた。

 

>最近「自分って偏屈なんだな」と感じた

と上で書いたが、これをもう少し正確に表現すると、「自分にはなかなか変えられない偏屈な部分があるんだな」となる。

 

私は「偏屈な性格」というより、「偏屈なところのある性格」というのがより正確なのだな、と言葉にすることができた。

「偏屈」というのは、性格全体のことではなく、私の性格の中の一部だったんだ。

そして、「偏屈なところのある性格」というのは、おそらくきっと誰もがそうだろう。譲れないところ、迎合できない部分というのはきっと誰もにあるはずだ。何も特別なことじゃない。

 

誇ることはない、厭悪(えんお)するようなものでもない、ただ、

「偏屈な部分もある」

「でも、それが人だ」

「『どこが偏屈か』が違うだけだ」

と言葉にして、整理して、受け容れることが前よりもできるようになった。

 

たとえば、特に2017年ぐらいの時期、SNSでコメントをいただいたとき、返事が遅くなってしまったりできなかったりすることをおそれていた。

嫌われたくなかった、できるなら好かれる対応をしたいと思ったからだ。

でも、同時に自分の納得のいかない文章を書きたくなくて、結果的にずるずる返事ができずそんな自分に自己嫌悪を抱いた。

 

多分、この「納得のいかない文章を書きたくない」というのは私の偏屈な部分なのだ。

誰かへの些細な返信であっても、できるかぎり、自分の頭で考えて書きたい。自分で「書いたぜ」と満足できる文章を書きたい。

『自分の文章を愛するということ』というブログを2年以上前に書いたこともあるが、私は自分の文章が好きで、自分自身の中で無条件に好きでいられるところがいまのところ自分の文章だけなので、それを、せめて、損ないたくないのだと思う。

 

でもすべての文章に対して納得のいくまで試行錯誤していたら、時間がおそろしくかかってしまう。

そこで、最近は、

  • スピードを重視する文章
  • 自分の「納得」を重視する文章

に分けることができるようになった。

そこで後者を選んだものの、納得のいく文章が思いつかなければ「納得いかなかったらしょうがない。その結果、万が一、嫌われることがあろうとも受け容れよう。自分の中の偏屈を大事にしよう」と割り切ることができるようになった。

 

つまり、処世を大事にするか自分の偏屈に従うか、を前よりも分別して決められるようになった。これは私にとってすごく大きなことだった。

(私は人の世で生きる以上、処世ってすごく大事なものだと思っているので、「処世」の言葉に世の中で時折使われるような軽侮の意味合いは込めてない)

 

悩みに悩んで返信が遅れていた以前と、割り切った結果返信が遅くなった現在と、「結果が一緒じゃねーか!」と言われたらそれまでなのだけれど私の精神的な負担は異なる。

そうしたある種の「あきらめ」「割り切り」が、『35歳になった感慨をただ己一人のために綴る』でも書いた「まあしょうがないよね、うふふ」というひと言に実は内蔵されている。

(そこまで書けなかったが)

 

「しょうがない」という言葉は、マイナスの意味合いで使われることも多いけれど、「うん、これはしょうがない」とつぶやくことで気持ちを切り替えることもできるので、私は好きな言葉だ。

自分の中の「偏屈」な部分を大きくするでも小さくするでもなく見つめて、それを誇るでも遠ざけるでもなく、「うん、そうなんだよな」と受け容れて生きていければなと願って現在の心持ちを記す。

 

しかし、前回の反省から「1記事に1つのテーマのことだけ書いて、さらっと短く読めるようにしよう」と改めて決意して書きはじめたのに、結局長くなるのはどうしたことだろう。

それと、書き漏らしたが文章のことだけではなく、コミュニティ内での振る舞いも自分にはできないことが多いので、最近はいろいろ割り切ってあえて視野をせばめて振る舞っている(ご不快の念やもどかしさを抱かせたら謝りたいが、多分直せない)。

また、改善すべき点を放置して開き直るのが正しいと言いたいわけでもない。見極めは難しいが、そこが改善すべきところなのか、変えられないところなのか、自分の年齢によっても変わるので随時問い直すやわらかな姿勢は持ちたい。

 

なお、最後になりましたが、「脱衣麻雀の話をしてもいいよ」という広いお心をお持ちの方、「おれの脱衣麻雀の話を聞け」という勇猛の士は男女問わずひと声おかけいただけると励みになります(なんのだ)。

逆に「脱衣麻雀はさすがに引きます」とお思いの方もひと声おかけいただけると幸いです。思いとどまります。

めがね。

 

 

 

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<余談>

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