「偏屈」という単語で己を評するとき、本来は卑下と反省の意味合いでもってそれがなされるはずである。

であるのに、しばしば、「偏屈」という自称は、己の偏屈たるを誇るような意味合いで行なわれることがままある。

 

「かの偉人・表現者は、偏屈であった者も多いという。では偏屈極まる私もまた、偉人・表現者たりうる資質を備えているのではないか?」

このような陶然とした響きをも含ませて、人は己を「偏屈」と評する。

「偉人・表現者が偏屈であった」ことは、「偏屈な者全員が偉人・表現者である」ことをまったく証明してはいないのに、論理的な破綻にはてんから気づかぬのか、気づかぬふりをしているのか、己を「偏屈」と吹聴して憚らぬ者がいる。

 

これは、「毒舌」「ドS」を自称するのに近いものがある。

「おれ、毒舌だから周囲の空気を気にせずハッキリ思ったこと言っちゃうんだよねえ~」などと口にする人間は、反省しているようで、むしろ己の毒舌たるを誇負していることがままある。

その実、彼・彼女はただただ思いやりの足らない、言い方・伝え方というものに思いを巡らせたことのない不思慮な人間、ということもまた少なからずある。

 

あえて冒頭からこんな話をしておいてなんだが、最近私は「自分って偏屈なんだな」と思うことがあった。

もちろん卑下と反省の意味合いでもって思ったのだが、実際、まあ、上の文章は自分のことを指している。

「まあ偏屈でもしょうがないよね。うふふ」といった心持ちが、心の隅にないとはとても言えない。

 

先週ぐらいに私は誕生日を迎え、35歳になったのだが、私はSNSやDMなどで「おめでとうございます」と言われるのが苦手、いや、この際はっきり言うと嫌いなのが最近明瞭になってきた。

同時に、SNSで「おめでとうございます」と言うのもあまり好きではない。

この点、Facebook野郎がやたらと「この人、今日が誕生日だよ!」「この人誕生日近いよ!」とすすめてくるのか嫌でたまらない。ので機能をオフにしている。「祝うことを強要されている」ような仕様に嫌気がさすのだ。

たまたま目にして言うこともあるが、基本的には「いいね!」だけ押して、画面越しにニヤニヤしている。

(気持ちは本当に「いいね!」「誕生日というのは素晴らしいものだ」と思っている。ただSNS上で言うのがどうも気持ちにそぐわないだけだ)

 

偶然会ったときに「おめでとうございます」と言うぐらいならよかろう。

こんな話をしておいてなんだが(2回目)、私は人へお祝いをするのは好きなほうだ。

といった誕生日ひとつにやたらと屈折した感情を抱く点に、自分の偏屈さを感じた次第だ。つべこべ言わずに「おめでとうございます!」と言っておけ。

 

なんでこんな栓ないことをくだくだしく話しているのかというと、まず、そうした理由で自分が先日誕生日を迎えたのだが「おめでとうございます」とか大丈夫だよと遠回しに書いておきたかったのと、「35歳」というのが、なんだか自分にはとても特別な区切りであるように感じられたからだ。

そして、そんな「特別な区切り」に感じられた35歳であるのに、私は自分への失望を真っ先に抱いたからだ。

「あのときぼんやりと想像していた35歳になったというのに、お前はいったいどんな人間になれたというのだ」

自分への問いから意識をそらすために、冗長な話をして正視しないで済むようにしているのだ。

 

よく、「80歳になるまでの自分の日数を数えて死を意識しよう」といった意見を目にするので、「ほんほんなるほど。人というのはどうも自分が生きていることに無頓着になりますからな。これはいい」と思って導入してみたものの、「16,000日」などといった数が表示されるたびに、「16,000日って、つまりあと何日?」みたいな頭の足りない感想が浮かんでしまっていた。

つまり、私の場合、数が大きすぎてどうも遠くにある蜃気楼のような、実体のないものに感じられてしまったのである。

 

ではと思って、34歳のときに35歳までの日数をカウントしたところ、「165日」⇒「81日」⇒「38日」といった実感のこもった数字が徐々に迫ってくるので「やべぇ、もう35歳になるじゃんおれ」と危機感が募った。これは非常によかった。

なぜ35歳にしたかというと、私がこの税理士業界に入って少ししたのち、「35歳ぐらいで独立したいなあ」とぼんやり思ったことに由来する。

 

そういう意味では、35歳で独立していたところ、31歳で独立してなおかつなんとか続けられているので、もっと自分を認めてあげるべきなのだ。「すごいじゃないか」と自分に言ってあげるべきなのだ。ということを「ブログに書くかな」と思うことで気がついた。この歳になって些少ながらもわかったことは、「ふと思う感慨は意外と歪んだ認識であることも多い」という自分の感覚の「たしかでなさ」だ。

勝手に抱いた自分への失望を、整理して言葉にすることで別のものに変えてあげることが、できるときもある。

あるいは失望が消えなくて、左手に持ったままであっても、右手にまた別のもの(たとえば、自分への励まし)を手にすることができるときもある。

 

独立できて、ありがたいことに出版もできて、いろんなところでセミナー開催させてもらって、と指折り数えてみたらすごいじゃないか。

もう少し自分のことを認めてあげてもよい。たしかになりたかった自分にはなれていない。できなかったこともたくさんある。プログラミングなんて何回「もう無理」と思ったかわからん。エラーが起きてから「もう無理」までのスピードが速すぎる。

でも、できたことだって、数えてみたらちゃんとあるじゃないか。

 

『自分に「熱狂」がないことを、さびしく思うことがある』でも書いたことがあるが、私はほんとに野心みたいなものが、もう少しこう燃え上がらんものかと自分でもやきもきするぐらい乏しい。

「妻と楽しく生きていたい」

「あははと笑えていればそれでいい」

というのが私の基本理念みたいなところもあり、それは年月を経てもなかなか変わることがないのだなあと思う。

(強まりも弱まりもしない)

 

ということで、こういう話をするときはだいたい同じ結論(「楽しく生きていたい」)になるのだけど、「何歳~何歳までは同じ結論になっていた」ことを残す意味合いでは、自分のためにこういう話をときどき書くのも有用なのだと思う。

あくまで自分一人のためのものだが。

死ぬまで同じようなことを思っていたとしても、少なくとも自分にとっては「なるほど」と自分を解剖する材料のひとつにはなるだろう。

ということを35歳になったある冬の夜に考えたのであった。

冗長・散漫で申し訳ない。

めがね(締めの言葉)

 

 

 

 

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<余談>

『自分に「熱狂」がないことを、さびしく思うことがある』もそうですが、アイキャッチ画像に写っているのは妻です。妻無許可掲載シリーズ。バレたらやばい。なお、今回の記事の写真はイケアに趣いた際「うおー」とテンションが上がった妻です。かわいい。

ここまで生きてこれたのは100%妻のおかげです。ありがとう。

 

 

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<追記>

最初のほう偏屈について書きましたが、思うところがあり『偏屈のことを誇るでも厭悪するでもなくただ受け容れよう、こわがらずに』で書きました。

また、この記事を読んだおかげ(?)かわかりませんが、Amazonのほしいものリストからカロリーメイトを送ってくださった方がいらっしゃいました!ありがとうございます!!

 

 

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