こんにちは。めがね税理士の谷口(@khtax16)です。

 

わたくし、かっこよくおしゃれに言うと、とあるプロジェクトのため大阪へ行っていました。

そこでのいろいろは後日きちんと書くとして、お会いしたかった方たちにお会いする機会を設けていただき(みなさんありがとうございました!)、そこで「お世辞」と「自分の軸」について考えるところがありました。

 

 

心ないお世辞は人(相手)を殺す

「お世辞は人を殺す」

というと少々過激ですが、まあそれに近いようなことを引き起こすこともあるのかも、と思ったことがありました。

 

ちょっと具体的に言うのもどうかと思われる話なので、たとえ話にします。

たとえば、私、めがねをかけているのですが、ある日「真っ黄色のめがねを自分のトレードマークにする!」と言い出したとします。

 

 

こんなの見る人が見れば「笑福亭笑瓶兄さんか!」と言われそうなものですが、斬新な着想を得て意気揚々のわたくし、SNSでこのめがねをかけた写真をアップしました。

 

見た人は、

「これマジで仕事のときにかけるつもり?」

「こんな笑福亭笑瓶スタイルの税理士は我が社にふさわしくない」

「どうせアップするなら『しょうへいちゃん』(笑福亭笑瓶さんの個人的に好きなギャグ)やれや」

と心の中で罵倒します。

 

しかし、SNSのコメントには、

「超似合う~♪」

「絶対印象にのこりますね!」

「うん、この明るい黄色と、フレームの角度がもうたまらないね」

と肯定的なコメントが次々に並びました。

 

それらのコメントと大量の「いいね!」を見た私は「やっぱり間違ってなかったんだ!」とさらに自信を深めます。

 

 

 

その後社会的に死んだとした場合

しかしそのめがねをかけた私は実質的に笑瓶兄さんであります。

まじめな話のときも、会社が倒産しそうという窮地にもかたくなに黄色いめがねをかけつづける私に、お客さんの私への印象は目に見えない程度に少しずつ悪化し、徐々にお客さんは離れ、仕事がなくなってしまいました。

 

となれば、お世辞を真に受け自分で可否を判断しなかった(判断を他人の評価に委ねた)自分に問題があるのはもちろんのこと、安易にお世辞を並べた人も社会的にその人を殺す一端を担った、とも言えるのではないでしょうか。

言われた側がこんなことを思えばただの逆恨みですが、もし自分がお世辞を言った側であれば、そういう「よくない結果を引き起こす手伝いをしてしまった」という責任感も持つべきではないか、と考えたのです。

 

 

 

お世辞を言われた側は真に受けすぎない

このときお世辞を言われた側としては、「割り引いて冷静に受け取る」ということが大切でしょう。

自分への肯定的な評価というのはとても嬉しいものですが、特に知り合いの方に否定的な意見を言うのは通常腰が引けるものです。

あまりにも肯定的な評価を真に受け、それを拠り所にしてしまうといいか悪いかの判断を他人にゆだねてしまうことにもなってしまいます。

 

とはいえ、実際の私は自己肯定感が低く、なにかしらまれに褒めていただくことがあっても「お世辞を言ってくれているのであろう」と考えるひねくれた人間なのですが、これはこれでよくありません。

なにごともバランスが大事。自分の自信にしつつもそれに寄りかかりすぎない、というのがちょうどいい距離の置き方なのではないでしょうか。

 

 

 

なんでこんなことを思ったか

まあ正直色のついためがねは個人的にちょっと悪くないと思っているので、たとえとしては優れていませんが、大げさに書くとこういうことが起きている場合もあるのではないでしょうか。

 

なんでこんなことを思ったのかというと、冒頭に書いたとある機会でこんな話を一部しまして、

「なんで自分の抱いた違和感をもっと信じなかったんだろう」

と思ったことがきっかけでした。

 

私はわりと簡単に「いいね!」などをする人間です。

ただそれでもするものしないものは自分なりに基準を設けていて、それに従っていたのですが、この「基準」をそこまで明確に言語化していませんでした。

 

また、私は「郷に入りては郷に従え」にかなり従う人間でもあります。

この言葉が有効に機能することはかなりあると思うのですが、ただ従いすぎて自分の軸を失っていなかったかな、とも思ったのです。

違和感を抱きながらも「まあここではそうなってるんだ」と、とある場で思ってその場のルール(というより空気)に従って行動していたところ、自分が抱いていた違和感を明確に言語化していた方たちに、

「ああ、やっぱりあの違和感はおかしなものじゃなかったんだ」

と安心するような気持ちが胸に湧いたのです。

 

 

 

自分の軸の無さ・細さ・脆さは自分を殺す

しかし、

「人の意見を聞いて、それが自分のものと合致していたから安心する」

というのはどうも自分の思考・感覚に対する信頼が足りないのではないでしょうか。

 

人は、というと一般化しすぎな気もするので、少なくとも私にはそういうところがあります。

 

あのとき、もっと、

  • 自分の「違和感」を明確にして信じてあげるべきだったのではないか
  • そしてそれに基づいて行動すべきだったのではないか

という反省がいま胸のなかで渦巻いています。

 

特に最近迷いを感じることが多く、これは「自分の軸の無さ・細さ・脆さが自分を殺している」ことが原因ではないかということを感じています。

 

こういうときこそ以前に書いた「やらないことリスト」を見直し、もっと明確に言語化して、自分の行動に落とし込めるように書くべきなのかなと思いました。

 

 

 

安易な「いいね!」をすると軸がぶれる SNSとの距離感

また、少し話がそれますが、SNSで、

「このあいだいいねしてもらったから」

「このあいだコメントしてもらったから」

という理由でなにかしらのお返しをするのは、やっぱり不自然だよなあと思うことがあります。

こういう行動は自分の軸のぶれを増幅しているのではないか、とも感じるのです。

 

私はちょっとでも「いいこと言ってる」「わかる」と思うとシェアをしたいなと感じるタイプです。

ただ、それは、税理士とか士業の人が「自分が自分が」「自分はすごいんだから与えてもらって当然」というタイプが多く、

  • まず自分から与えようという気持ち
  • なにかをしてくれたことに対する感謝の気持ち
  • 人(やそのビジネス)に対する敬意

が感じられない人が多い(と私は思っている)ことに対して、「自分は違うんだ」と言いたいだけでもあるのでは、とこのことをきっかけに気づきました。

 

結局のところ、「他人との比較」から出発することは自分の軸から遠ざかることに行き着くのではないか。

もちろんその方法が軸を明確化するのに有効なこともありますが、それはあくまで「手法のひとつ」と捉えたうえで扱わないと、結果的には後日軸がぶれる原因のひとつにもなり得るのではないか。

禅でよく言われる言葉「相対ではなく絶対」。

誰かと比較してどうか、ではなく、自分のなかから生まれたもの(感情)をもっとすなおに見つめて、把握する、明確に言語化する、そういうことが必要なのかなと感じたのでした。

 

 

 

 

おわりに

すみませんとりとめのなさがすごいですね。

また、持っていきたい話が先にあったため論理の流れがどうも不自然。

『〔質問力の鍛え方〕相手が思うような返事をしてくれないときは、まず自分の「質問力」を疑ったほうがいい』などという記事を書いておいて抽象的な話がつづくのも反省点です。

 

ともあれ「SNSでのシェアやコメントはもうしない!」ということではまったくないのですが、もう少し自分の好きにしてもいいのではと、ブログやSNSとの距離感を少し見直すきっかけにできればなと、考えています。

 

しかしコメントをつけるとき、私そこそこ慎重(臆病)なタイプでして、

  • この言い方失礼じゃないかな
  • この書き方だと誤解されるかも、別の言い回しを考えないと

とかやたらに気にしてしまい、ひとつのコメントをするのに10分20分考えることもあります。

「気にせずコメントできるようになるべきか」「コメント自体をもっと控えるか」というのは悩ましいところですが(また迷ってるやんけ)、そういうところも揺るがない「軸」を基準にして迷いから脱却したいものです。

 

 

 

 

◇ 谷口孔陛税理士事務所のホームページはこちら! https://kh-tax.com

 

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