文章を書けなくなったので、30分ぐらいで書ける短い話をSNSにも通知させず書いていくことにした(たぶん)

 

年齢を重ねると、あきらめることをおぼえていく。

あきらめると生きるのが楽になる。

思春期のころの、あの激情と、あの生きづらさと、だんだんとつきあう方法がわかって、距離のとりかたがわかって、あのときよりは楽に生きていけるようになった。

 

それに「成長」という名前をつけることもできるのだろうけど、何かをつくるときの原動力、どうしようもなく歩を進めなくてはならないときの原動力もまた、あの生きづらさにあったのではないか。

 

もともと「成長」という言葉が嫌いだった。

ただの「変化」に、「成長」なんて耳ざわりのいい言葉をつけて、「自分は前に進んでるんだ」と言い聞かせてるだけじゃないかと思っていた。

 

いまもどこかで思っている。

 

変化でいいじゃないか。

なぜ「進化」にしようとするのか。

まるで前に進んでいないと価値がないみたいだ。

まるで昨日より大きくなっていないと価値がないみたいだ。

 

昨日のぼくと今日のぼくは違う自分。

それがよくなったのかどうかは、誰にもわからない。

変わったあと、また戻っているのかもしれない。

それでいいじゃないかと思う。

進んでいるつもりなのに戻って、のたうち回る、それが人間じゃないかと思う。

 

「成長」という言葉が嫌いだった。

自分のなかで、「いまよりよくなろうとする努力」を持つことは大切だけれど、それをなにがなんでも「成長」に結びつけて外部向けに誇示するのが嫌いだ。

(とはいえ、私は処世のために、そう見せたほうが効果的と感じたときに嫌いな言葉を使うこともある)

 

歩くことは大切だ。

でも、それは「みんなにとっての前」でなくてもいい。そう思っている。少なくともいまは。

自分が顔を向ける方角に歩いていきたい。

一歩分も進めなくても。

うつむきながらでも。

 

 

 

 

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