こんにちは。めがね税理士の谷口(@khtax16)です。
先日『映画「永い言い訳」あらすじと感想 面白い泣ける不快になる』という記事で映画の感想を書いたのですが、その後小説も読んだので、改めて完全ネタバレ版として感想を書いてみます。
【完全ネタバレ】と書くだけあってめちゃくちゃ内容が書いてありますので、ネタバレが嫌な方は絶対に読まないようご注意ください。
⇒『映画「永い言い訳」あらすじと感想 面白い泣ける不快になる』
目次
『永い言い訳』への疑問
重ねて言いますが、以下に思いっきりネタバレがありますので嫌な方はくれぐれもお気をつけください。
タイトルへの疑問
前回の記事には書けませんでしたが、私が『永い言い訳』の映画を見終えたあと、「すごく面白かった」という感想とともにある疑問も胸に残っていました。
それは、
- 主人公は本当に「妻に」言い訳をしていたのか
- 主人公は妻の死後、妻と向き合えていたのか
というものです。
キャッチコピーへの疑問
また、前回、この映画のキャッチコピー、
妻が死んだ。
これっぽっちも泣けなかった。
そこから愛しはじめた。
出典:『永い言い訳』公式サイト
もご紹介しましたが、この「そこから愛しはじめた」も私は疑問で、「本当に主人公は妻を愛しはじめたのか」と思いました。
この映画が主人公の再生の物語であることに異論はないものの、主人公が向き合ったのはあくまで自分の空洞、突然妻を失ってできた「自分の」虚(うろ)に対してだけで、むき出しの心で妻と向き合っていたようには思えなかったのです。
「もう愛してない。ひとかけらも」
ネタバレなので思い切って書きますが、私のこれらの疑問は、妻の遺品のスマホに浮かび上がった、
「もう愛してない。ひとかけらも」
というメールの下書き、この言葉と主人公とが真正面から向き合っていたようには思えなかったからです。
このメッセージは私にはあまりに突然で、衝撃的で、でも前回の記事で「くそ野郎」と連呼していたようにそれ自体は妻からの当然のメッセージ、自分の気持ちを突きつけてやりたい、夫への妻の憤慨・本心であるように私には感じられました。
きっと奥さんは旅行に行くバスの中で、あるいはもっともっと前に、主人公である夫へ「もう愛してない。ひとかけらも」という自分の想いの喪失を伝えようとして、でもやめて、あるいはそんなメールを送る気はなく、ただただ鬱屈を晴らすためだけに携帯へぶつけ、そしてそれを消し去る機会もなく亡くなってしまったのではないか。
そういった奥さんの逡巡が、あの言葉が画面に浮かび上がった一瞬で想起され、私は息を呑みました。
『永い言い訳』の小説を読んで
そのような疑問が完全には消化しきれないまま、小説の『永い言い訳』も読みました。
小説の感想としては、
- 映画よりも更に丁寧に、それぞれの人物の心情が描写されている
- 主人公はますますくそ野郎だなと思う(だから共振する)
- 映画でははっきりとはわからなかった、マネージャーの岸本の本心がわかる
- ちがう部分もあるが、大筋は映画と同じ(監督も著者も西川美和さんです)
という感じで、小説もとても面白かったです。
どちらがよかったのかというと、小説と映画どちらも甲乙つけがたい、というのが私の印象です。
大宮家への戸惑い、妻と重ね合わせる気持ち、のめり込む過程がわかる
大宮家は、竹原ピストルさんが父を演じていた、主人公の妻の親友のご家族です。
映画では、主人公は思いのほかスムーズに大宮家に溶け込んでいるように思いましたが、小説ではこの過程ももう少し丁寧に描かれていました。
なつかれることに戸惑いを覚える
まず主人公が、こどもになつかれることをなかなか受け容れられなかったことがわかりました。
妹の、保育園に通うあかりちゃんがラーメンを食べに行きたがっても、「『ぼくと一緒にラーメンを食べに行くこと』を楽しみにしてるんじゃなく、あくまでただラーメンが食べたいだけだ」と自分に言い聞かせるなど、少しずつなつき始めたあかりちゃんに戸惑う気持ち、受けとめきれない迷いが感じられました。
妹の女性性と妻とを重ね合わせる
また、まだ幼いあかりちゃんが、この年にして時折見せる女性性に、妻のことを思い起こして、重ね合わせることもありました。
映画でも、なんとなく「この家族との触れ合いと、妻への想いとを重ね合わせていたのかな」とは思っていたものの、そうと確信できなかったので、小説だとその心情がありありと感じられました。
家族へのめり込む
大宮家にのめり込む気持ち・のめり込む程度もよりはっきり描写されていました。
そう、のめり込むというより依存すると言ってもいいような想いの強さで、大宮家に(特にこども二人に)自分の存在意義を託しています。
特に科学館へ行って、半年以上経ってもめそめそと泣く陽一君(竹原ピストルさん)にチクリと言う場面では、主人公の「おれが大宮家の生活を支えているんだ」というやや歪んだ自負が映画以上にあらわになっています。
「もう愛してない。ひとかけらも」に対する印象の変化
映画ではこの「もう愛してない。ひとかけらも」に、主人公が真っ正面から向き合っていたようには、私には思えませんでしたが、小説を読んだらかなり印象が変わりました。
それどころか、妻から夫への、憤りのこもった
「もう愛してない。ひとかけらも」
だと思い込んでいたものが、もしかしたら夫の気持ちを代弁した、
「(あなたは)もう愛してない。(私のこと、)ひとかけらも」
という夫の愛を失ったことへの悲しみをこめた言葉だったのかもしれない、そんなもう一つの解釈も生まれてきました。
私はあるシーンに一つの解釈しかできない作品があまり好きではなく、「本当は、どっちだったのかな」と思いを巡らせることのできる本作のような映画や小説がとても好きです。
だってもし現実世界で同じようなことが起きて、親しい誰かが突然亡くなってしまったとしたら、その真意を知ることって永遠にできないと思うからです。
もし遺書が残っていたとしたって、それがその人の本当の本心かはわからない。
だからこの「もう愛してない。ひとかけらも」に対して、読み終えてからも、そんな答えの出ない問いをぐるぐると考えることができました。
これも、私が「面白かったな」と思った大きな理由の一つです。
おわりに
というわけで、映画を見たあとに小説を読んだ私の感想をつらつらと書いてみました。
私は結構突っ走った解釈をしてしまうことがあるそうなので、解釈が正しいという保証はまったくできませんが、本当に映画も小説もとても面白かったです。
そういえば、あと、陽一君(竹原ピストルさん)を迎えに行った帰り、なぜ主人公だけが歩いて帰っていたのか、映画ではわかりませんでしたが小説では明らかになっています。
(迎えに行く理由がまず映画と違いました)
映画を面白いと思った方には、ぜひこちらの小説もおすすめします。
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