自分の文章を愛するということ

 

「あなたは自分の書く文章が好きですか?」

 

そう問われて、胸を張って「はい、好きです!」と答えられる人間は、意外と少ないのではないか。

ということに気づいたのは自分がブログを書くようになって、いろいろな方のブログを読む機会が増えたためだ。

 

私はと言えば、そう聞かれた場合、

「あ、はい、まあどちらかといえば」

と答えつつ、内心では「世界でいちばん好きなのが自分の文章でしてよウフフ」とお嬢さま口調でニヤニヤするぐらいには私は自分の文章が好きだ。

 

その一方で、私は自分自身のことは大変にきらいである。というより、きらいであったし、その影響で自分というものへの自信が非常に乏しい。

 

無事着地するか不明であるが、「もっとアウトプットしたほうがいいんじゃないの?」と反省することがあったので、これに絡めて述べてみる次第だ。

 

自分の文章を愛するということ

 

自分と自分の文章と

私は、冒頭で書いたように、「自分の文章がすごく好き」という気持ちを抱いている。

 

「きもちわるっ」

と思われることを承知で言うが、あまりに好きすぎて、一時期携帯電話から人へ送ったメールを見返して「なかなかいい文章が書けたじゃないか」とニヤニヤしていることさえあった。

(自分でも気持ちわるすぎたので現在は休止しています)

 

なんでこんなことになったものか、理由はしかとはわからないが、これには「自分自身がきらいであった」ことが大きく影響しているのではないかと考えている。

 

 

自分自身への「うへぇ」という思い

自分で言うのもなんだが、私はもとの性格が暗いしひねくれているのでろくな人間ではない。

 

うちの妻は女神(本人に言うとイヤがられる)だが、私の性格は人間の皮にドブを詰めたようなものだ。

「人間」というよりも、「ドブがメガネをかけて歩いている」、と表するほうが正確であろう。

(メガネだけは残させてください)

 

顔面も非常にきらいで鏡を見るのもイヤだったし、「自分自身」のなかに好きになれる箇所が無いに等しかった。

冒頭で「きらいであった」と言い直したのは、現在「きらいでなくなった」「好きになれた」というより、

  • 慣れてしまったから
  • あきらめてしまったから

あの思春期~20代前半のころのような烈しい感情ではなくなってしまった(それに喪失感をおぼえることもある)、というだけで、いまでも「ろくでもないなあ」と思うことはしゅっちゅうある。

 

また、いろんな人間にふれて、

「人間ってこんなものなんだな」

と知ったふりをするのがうまくなってしまったこと、

「自分は、マイナスの意味においてさえ、特別ではない」

という事実がはっきりと認識できてしまったこと、も影響している。

 

 

「きらい」に対する反動

そんな私が唯一自分に厭悪感を抱かなかったのが、自分の文章だった。

プロフィールに少し書いているが、私は小説を書いている(短いやつを一年に一作書くぐらいだが)。

 

18歳のときにはじめて小説を書いたが、その前はミュージシャンになりたくて、ミュージシャンになりたいわりには大してギターの練習もせず歌詞をちょくちょく書いていた。

作曲もせずに歌詞だけ書いてなんになるというのか。

いまならそんな叱責も容易だが、ふにゃふにゃの甘え野郎であった私は特に疑問も抱かず、そのうち自動的にミュージシャンになれるものと思っていたフシがある(単に世間を知らなかっただけだろうが)。

 

当時はそんなことを思っていなかったが、きっとこれも「自分の文章が好き」がはみだした現象だったのではないか。

まあなんやかんやでミュージシャンをあきらめ、ならばと小説を書きはじめて、これが個人的にはハマった。

ハマったって言っても本当に「個人的に」でしかなく、世間的には箸にも棒にもかからなかったわけだが、まあとにかくこの「自分自身への厭悪」と「唯一きらいになれずいれたもの」とがあった影響で、私は自分の文章が好きになったに違いない。

 

 

「自分の文章が好き」に他人の評価は一切関係ない

ところで、ごくまれにであるが、ブログを書きはじめてからというもの、私の文章をおほめくださる方がごくまれにこの世界に存在する。

もうそんなことを言われた日には私は飛び上がるほど嬉しく(実際ちょっと浮いている)、感激の涙をふりみだして部屋の壁をびちょびちょにして妻に叱られるわけだが、かといってそれが私の「自分の文章が好き」を強化するかと言われると、そんなこともない。

 

また逆に、

「読みにくい」

「くさい」

「なにが言いたいのかわからない」

「しょっちゅうスベっている」

「生理的に無理」

などと罵倒されたとしても、私の「自分の文章が好き」には蚊が刺すほどの影響も与えない。

(くさいのは体臭だほっとけ)

 

これがなぜかというと、私は「自分の書く文章そのもの」のことが好きなので、

  • うまく書けた文
  • すべりまくった文
  • まじめな文
  • ふざけた文

のような、いい文章もわるい文章もすべてひっくるめて好きだから、というほかない。

 

これを「存在承認」というらしい(心理学の用語なのか知らないが)。

「テストでいい点をとろうと、運動が全然できなかろうと、人付き合いがうまくできなくても、メガネをかけていても、どんなあなたでもいいんだよ」

と、行動や成果などには影響を受けず「その人の存在そのもの」を認めること、が存在承認だ。

(メガネは人類の至宝ですから当然ですね)

 

私の自分の文章に対する気持ちも、これに非常によく似たものがある。

 

 

アウトプットの重要性

また少し話がそれるが、「アウトプット」というものの重要性が叫ばれる昨今である。

 

アウトプット。つまり、

「本を読むなど知識や情報を仕入れるだけでなく、それを自分なりに咀嚼して外に出してこそ自分の血肉になる」

ということだ。

 

さすがにこの記事だと散らかりすぎているので、今度きちんとレビュー記事を書きたいと思いつつ頓挫しているのだが、最近とある二人の漢の「雇わない生き方セミナー」というものを聞きに行って、思うことがあった。

それは、「この人達の軸の太さはすごいな」ということだ。

 

どうしてこんなにぶれずにひとつの考え方を貫けるものか、自分との差に悩んでいるのだが、二人が口を揃えていたのがアウトプットの重要性である。

  • アウトプットをしなかったら損をする時代
  • アウトプットをしないならいっそインプットをしないほうがいいぐらい
  • インプットをするときは「アウトプットできるかどうか」と、二つをセットで考える

ということであった。

 

それを聞き、いまは、「自分とこの人達との差は、アウトプットの量や、インプットに対する心構えが根本的に違うからではないか」という仮説を立てるに至った。

 

 

「自分の文が好き」なのにアウトプットにつながらない理由

実は当記事を最初に書いたのは4カ月前で、そのときは「自分の文章を好きでいてあげるために」的なタイトルで書こうとしていたこともあって、頓挫していた。

お蔵入りにしたのは、自分の内心から「キサマごときが何を偉そうに」と難詰されたためだ。

(一から書き直しているので、内容全然違います)

 

私は「自分の文章が好き」というわりに、少し書いてはすぐお蔵入りにするくせがある。

これがなぜか考えると、「自分自身のことはきらい」なので、文章そのものは好きでも「書いてある内容」に納得がいかない(あるいは私を知っている方からの「あいつ偉そうなこと書いてる」という嘲笑をおそれる)ためではないか。

 

まあこの記事は書き直してよかったが、アウトプットをもっとしていくためには、ここの自信のなさを克服する必要があるように思う。

この記事のように、角度や内容を変えることでアウトプットにつながることもある。

 

私はぶれない軸(背骨)を手に入れたいし、そのための方法が、いまはアウトプットしかわからない。

「気分がのらない」「これでいいのか自信が持てない」という甘えや弱気と、向き合って、どうにかできるかぎりのアウトプットを続けていきたい。

 

 

「アウトプット」の言い換え

また、言いがかり感もあるが、「アウトプット」という横文字も取り組みにくさを倍加させているのではないか。

 

「噛んで吐き出す」

 

食事だとお行儀が悪くてママンに叱られてしまうが、「噛んで吐き出す」という行動や意識を常に大切にしていきたい。

(どうでもいいのですが小説『異邦人』の「きょう、ママンが死んだ」というはじまりはやっぱり秀逸ですね)

 

そしてきっと、もっとインプットも偏っていていい。

「アウトプットできるかどうか」

を基準にインプットするものを選択していくべきなのだろう。

 

プログに書くだけがアウトプットではないので、いまは判断を難しく感じることも多いけれど、忘れないようここに記す。

 

書くしかないんだろう。

自分がどこに行けるかを、せめて自分自身は、楽しみにしていてあげなくては。

 

 

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