Coccoさんの「ポロメリア」ってめっちゃいい曲じゃないっすか?

 

こんにちは。めがねをかけた谷口(@khtax16)です。

 

『〔短歌・日経新聞〕穂村弘さんのコメント毎回かっこよすぎ問題』

『オススメの近代文学って何?『金色夜叉』一択でしょうが! あらすじと感想まとめ』

と同じような趣味丸出しの記事なのですが、せっかくブログを分けたことなのでもう平日とか休日とか関係なく書きたいことを書こうと思い立ちました。

 

かなり好き嫌い分かれるのでしょうが、わたくしCoccoさんが中学生くらいからずっと好きで、最近ふと思い出して聞いてみたらやっぱりよかったので完全ヨイショ記事をば失礼いたします。

 

Coccoさんの『ポロメリア』ってめっちゃいい曲じゃないっすか?

まずタイトルにも書いた「ポロメリア」という曲があります。

ショートバージョンですが、Coccoさんは公式のYouTubeのページがありますので、そちらのリンクを埋め込んでみます。

 

 

Coccoさんの曲で、有名なのって言ったらなにになるんでしょうね。

『Raining』という曲が僕の世代(30代前半)の方には知られているほうなのでは、と勝手に思っているんですが、それは、

 

静かに席を立って
ハサミを握りしめて
おさげを切り落とした
出典:『Raining』歌詞

 

というおさげをハサミで切っちゃった女の子のくだりから、2番になったら、

 

髪がなくて今度は
腕を切ってみた
切れるだけ切った
温かさを感じた
血にまみれた腕で
踊っていたんだ
出典:『Raining』歌詞

 

というまさかの腕を血まみれにしちゃうというバイオレンス展開。

ここの展開が衝撃的で、少なくとも僕のまわりでは

「ざわ……ざわ……(こいつ大丈夫なのか)」

みたいな評判になってました。そしてそんなCoccoさんの曲を好きなやつは暗いやつだみたいな評判もそのままついてくるみたいな。

 

それを言われて「暗くてなにが悪い!」って思うみたいな。

 

 

 

『Raining』の歌詞もよい

あんまり歌詞を貼りまくるのもよくないと思うんですが、『Raining』の歌詞はこれだけではなく、

 

それは とても晴れた日で
未来なんて いらないと想ってた
私は無力で
言葉を選べずに
帰り道のにおいだけ
優しかった
生きていける
そんな気がしていた
.
教室で誰かが笑ってた
.
それは とても晴れた日で
出典:『Raining』歌詞

 

こんな、少し前向きな歌詞もあるって書きたかったんですが、これ多分学校でいじめられた帰り道で、ほんの少しだけ、前を向けた瞬間があっただけなんじゃないかって気が書きながらしました。

 

曲を聞くとまたなんとも言えないんですよ。「教室で誰かが笑ってた それは とても晴れた日で」の部分も、目の前に光が差したようにも聞こえるし、晴れた日の救われなさ(環境と自分の心とが一致してくれない、もどかしい、自分だけが救われないように感じてしまう感じ)を歌っているようにも僕には聞こえるのです。

題名も『Raining』とまず雨を想像させるのに、晴れた日のことを歌っていますしね(2番で雨の日も出てきます)。

 

これも公式のショートバージョンがあるので埋め込んでみましょう。

 

 

 

 

 

『ポロメリア』は『Raining』よりとっつきやすいのでは

まあその『Raining』と比べると、曲調も穏やかで『ポロメリア』のほうがとっつきやすいようにも思います。

曲があってこそではあるんですが、歌詞だけでもご紹介すると、

 

見上げれば終りをみたこともない
目眩(めまい)を覚えるような空(あお)
出典:『ポロメリア』歌詞

 

と、少し明るい雰囲気が出ています。空の青さ、しかも際限のない広がりが想像できてよいですね。

まあこのあと、

 

あの丘を越えればいつもあなたがいた
さよならかわいい夢
出典:『ポロメリア』歌詞

 

って「夢だったんかい!」と思ってしまうような、別れを感じさせる歌詞が続くうえに、2番も、

 

強い光は影を焦げつかせて冷えた
愛から覚めるように
出典:『ポロメリア』歌詞

 

と情景を想像するとなんとも言えない切なさに襲われる歌詞がつづきます。

 

「強い光」って普通は明るい希望を表すのに使うことが多いですが、「影」を痛めつけるように焦げつかせたあと、温かさを知ったからこそ冷えたあとの切なさが浮き彫りになってしまったように感じられます。

「強い光なんて、知らなければよかった(愛から覚めて、愛の喪失だけが胸に残ってしまった)」と言っているようにも思えるんですよね。

 

 

 

痛みに対して「痛い」と言えることは尊い

僕がCoccoさんの歌詞ですごくいいと感じるのが、「痛い」と感じたことをそのまま「痛い」と表現しているところです。

憎しみを感じたらそのまま「これは憎しみである」と表現しているところです。

 

「世界は醜いけれど、美しい」とか

「闇があるからこそ光もまた輝く」とか

そんな「反対の概念さえ述べておけば『こいつは本質をとらえている』とか思ってもらえんじゃね?」と思ってんじゃないかと勘繰ってしまう浅い歌詞は世の中にちょいちょい見ます。

 

Coccoさんは『焼け野が原』という曲でも、

 

どこまでも
行けるような気がしてた
でも寒くて
とても寒くて 歩けないよ
出典:『焼け野が原』歌詞

 

と、普通だったら「とても歩けなかったけど、(君の存在や愛などで)いまはどこまでも行けるような気がしてるよ」で終わりそうなところを、ただただ「もう歩けないよ」で歌詞が終わるんですね。

僕はこれでいいんじゃないかと思うんです。

 

痛かったら「痛い」と言う。

あいつが憎いと思ったら「憎い」と言う。

助けてほしかったら、すなおに、だれかに「助けて」と言ってみる。

 

現実的には、言うべき場面や、言葉を選ぶ必要はあるんでしょうが、それでもただすなおに感じたことを感じたままに言葉にするのは大切なことだと思います。

だれもが前を向いて「世界ってすばらしいね!」と叫んでいたらそれはそれで息苦しい世の中なんじゃないか(少なくとも息苦しさを感じてしまう人は一定数いるんじゃないか)と思ってしまうのです。

 

 

創作上痛みに対してただ「痛い」と表現するのは難しい

じゃあ歌詞を書くときに、

「痛いっす。自分痛いっす」

「あいたたたた。こら痛てーやトホホ」

などとひたすら書いてあればそれでいいのかというと、これ実はかなり難しいことなんじゃないかと僕は思っています。

 

なぜかというと人には自意識があって、「痛い」ということを表現するときには高確率で被害者意識や陶酔や自己主張も混じるように感じるからです。

「痛い。なぜなら私は感受性が豊かであるから世界から必要以上の刺激を受けてしまう」

「ねえねえ僕こんなに痛いんだよ。わかってよねえ痛いんだよ」

「私は世界から取り残されている。のけものにされている」

こんな歌詞は実際には見たことはありませんが、「痛み」を表現するには通常「自分がどんなことに痛みを感じたのか」もあわせて表現しないと他人には伝わらないものであり、ここの説明部分で人はたいてい自分が被害者だと感じているので、どうしても独りよがりというか「自分は(まったく/そこまで)悪くないのに必要以上の打撃を受けている」という被害者意識が混じってしまうような気がするのです。

 

なのでCoccoさんが、そういうものを感じさせずに「痛み」を表現しているのがすごいなあと思った次第であります。

 

 

 

Coccoさんのベストアルバムでの好きな曲

こんだけ好きと言っておいて私が聞いていたのはほとんどベストアルバムです。

(普通のアルバムも持ってはいましたが)

これですね。

 

 

このなかで私が好きな曲を挙げると、

  • ポロメリア
  • Raining
  • 焼け野が原
  • 水鏡
  • 雲路の果て
  • 樹海の糸
  • あなたへの月
  • カウントダウン

なんかが特に好きでした。

 

このベストには入ってないですけど『My Dear Pig』とかも好きです。

『ジュゴンの見える丘』とか。

 

 

 

 

おわりに

タイトルに『ポロメリア』を入れているのにポロメリアの話が薄い。。

ほんとに好きなんですよ。ただ紹介するときにはほかの曲のインパクトに負けてしまうというか。

 

まあ久しぶりに聞いて、すごく好きだった気持ちを思い出したのでほとばしる思いのままに書いてみました。

カラオケでときどき歌うことがありますが、人がいるとドン引きされるのでひとりで行ったとき(か妻と行ったとき)に歌います。

 

もしだれかひとりでも「なかなかよさそうである」と思ってもらえれば恩倖(おんこう)これに過ぎたるはありません。

めがね。

 

 

 

次の趣味丸出しの記事はこちら!

『君の名は。』で流れるRADWIMPSの『なんでもないや』がいいよ、いいんだよ

 

 

 

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