LOVEの日本語訳は「御大切」だった? 恋だの愛だの気にするよりただ相手を大切にしよう

 

こんにちは。めがね税理士の谷口(@khtax16)です。

 

税金の記事(とときどきふざけた話)ばっかり書いているわたくしのブログでこんなことを書いて誰が読むんだ感をひしひし感じつつ、先日とあるツイートを見て感じた、

現代は「恋<愛」だと思っていやしないか問題

について考えてみました。

 

恋だの愛だの気にするより「大切にする」が大事

先日、Twitter(ツイッター)をあほづらさらして眺めていたら、

恋は「こっちに来い(恋)」
愛は「会い(愛)に行くよ」

というようなツイートが流れてきました。

 

 

一瞬「なるほど、恋の身勝手さを表現した言葉か」と納得しかけたのですが、冷静に考えると「こっちに来い」というような相手の事情を顧みない言葉はまったく「恋」によるものではありません(チャラ男が言ってるイメージしかない)。

昨今の世の中には「恋<愛」のように「恋より愛のほうが偉大」とでも言うような風潮があるようにも感じましたが、さにあらず。

恋も愛も同じくらい尊(たっと)いものなのです。

 

 

「恋に恋している状態」はダメ

いけないのはどちらかというと「恋に恋している状態」。

これはあくまでも「相手<自分」と、相手よりも自分が大切な状態、相手がどうこうではなく「私恋しちゃってるキャー」とあくまで自分の舞い上がる心が中心にある状態で、これは結局自分のこと(自分の胸にあるドキドキ感)が好きな状態にとどまっています。

(「こっちに来い」は「恋に恋している状態」ですらないので論外ですが、「相手<自分」という意味では同じですね)

 

対して恋も愛も同じように尊いというのは、これがどちらも「自分<相手」と、自我なんぞより相手の存在が大きくなってはじめて「落ちる・なる」ものであるからです。

「恋に落ちる」というのは本当にうまく表現した言葉で、恋に落ちるのは相手の存在で自分の意識がいっぱいになり、ほかには何も考えられなくなるからであります。

もう世の中には「君」しか存在していない状態になるわけですね。

愛にはこんな倒錯した面はないわけで、私はこのふわふわした現実離れした感覚を、目を覚ましながら得られる「恋」というものはものすごい現象だなあと思うわけです。

 

 

「この気持ちは恋?愛?」「はあどっちだっていいんじゃないすか(鼻ほじ)」

私はそういう考えなので、ときどき聞く、

「この気持ちが恋か愛か」

という葛藤にはあまり意味がないと考えています。

この迷いには「恋に恋する気持ちの延長」あるいは「恋から愛への脱皮を願う気持ち」、逆に「燃え上がるような恋ではなく、波の立たない静かな愛情になってしまったことへのもの足りなさ」が多分に混じっているように感じられるからです。

 

こちらはどちらであってもあまり意味はなく、恋か愛かと迷うよりも、

「相手のことが、いま、この瞬間も大切な存在であるかどうか」

と自分に問いかけるほうがよっぽど意義深い問いになりはしないでしょうか。

 

 

「LOVE」の日本語訳は「御大切(おんたいせつ)」だった

昔「LOVE」の日本語訳は「御大切(おんたいせつ)」だったという話を聞いたことがあります。

これはどうやら当時「LOVE」の概念に合うものがなかったせいらしいのですね。

 

私はこの訳ってものすごくいい訳だと思っていて、つまり

「相手の存在が大切かどうか」

「相手のことをもっと知りたいと思えるかどうか」

を軸にして考えることがいかに重要であるかを考えさせられます。

 

「LOVE」が「愛」という訳になったのは明治初期だそうです。
また、「御大切」は「ごたいせつ」と読む、という記事が検索すると多々出てくるのですが、私は夏目漱石の本かなんかで「おんたいせつ」と見たような…。
覚えてませんが私は「おんたいせつ」が好みに合うのでこちらを採用しています。

 

 

自分に対する理解を求めない

まあこれは多分に自分に対する反省があって、中学三年生ではじめてできた彼女にあっさりふられた話を『初デートでホラー映画はやめておけ』で書いたのですが、当時の私はとにかく彼女と話をつづけることができませんでした

中学時代の私はとにかく暗黒時代で、いま当時のクラスメイトに会うと「お前ほんとに暗かったよね」と言われるのですが、当時とそれからしばらくは「奥手だから話がつづかないんだ」と考えていました。

 

しかし奥手だとか内気だとかはまったく関係がなく、ただただ

「相手のことをもっと知りたいと思う気持ちがなかった」

「自分のことを理解してほしい、知ってほしいとばかり思っていた」

「かわいくて人気のある子だったし、まあ友達に先駆けて夜の営みなんぞを経験したかった」

という「恋に恋していた(恋をすれば自分を理解してくれる人が現れると思っていた)」のと「単純に自分の欲望のことしか考えてないゲスな気持ち」が彼女と話すことが出てこなかった理由で、相手のことを知りたいと思えばいくらでも質問は出てきたはずです。

 

いえ、「自分を知ってほしい気持ち」というのも恋の一部だとは思うのですが、やはりそれって自分本位、「自分が一番」な状態だと思うのですよね。

恋という以上もっと倒錯して狂うような、胸が苦しくてかきむしるような(かきむしってもどうにもならないのに対処法がわからないというような)ものであるべきで、「自分を知ってほしい気持ちで胸がいっぱい」ということであればそれは単に自分のことが好きなだけです。

相手を利用して自分の承認欲求を満たしたいだけ、ということであるならば、その気持ちを尊いと言うことはとうていできないでしょう。

 

 

私、あの人のこと好きなのかな…?

あと、少女マンガであるような(ありますよね?)

「私、あの人のこと好きなのかな…?」

という問いもほとんど意味がないと思います。

 

好きかどうかは一旦置いといて、その人のことを「もっと知りたい」と思うなら話しかけるなりご飯に誘うなり電話するなりして、相手を知るための行動をとにかく一つしてみるべきです。

「知りたいかどうかもわからないけど、どことなく気になる」なら、それでもとにかく声をかけてみるべきです。

それでどこか惹かれるところがあるなら会う・話す回数を重ねればいいし、なんか違うなと思ったら引けばいいだけの話です。

 

誘ったけど相手が来てくれなかったら?

これは切ない。これは恋の切なさと言ってもよいでしょう。

あなたの気持ちと行動はこれ尊いものです。大いに悶えましょう。

 

実際にどうしたらいいかは、相手が本当に予定が合わなくて来れないのか、やんわりお断りされているのか次第なので、三回ぐらい頑張ってみてだめなら次に行きましょう。

なに男も女も数はいます。

大切なのは「自分<相手」であること、そして「相手のことを知るために動いたその気持ち」であって、あなたのその尊い行動力をいつか実る日のために大いに活かしましょう。

 

とりあえず、

「私、あの人のこと好きなのかな…?」

に代表されるような、耳ざわりがいいだけの「好き」かどうかなんて甘い言葉はかなぐり捨てるべきです。

甘い言葉をつかうと酔ってしまって自分の本当の気持ちからは遠ざかる一方ですから。

 

 

 

これなんの話だっけ?

なんの話かいよいよわからなくなってきましたが、とあるツイートを見て考えたことをつらつら書いてみました。

 

改めて冒頭のツイート、

恋は「こっちに来い(恋)」
愛は「会い(愛)に行くよ」

を、このかける言葉をなくして純粋に現象だけ考えますと、

 

  • 恋こそ「いますぐ会いに行く(学校とか仕事とか現実的な事情をすべて捨ててでも)」
  • 愛は「そばにいるよ(物理的な距離だけでなく精神的な距離においても)」

になるのではないでしょうか。

(かけるのなくしたらうまくもなんともなくなりますが)

 

問題としては「愛か情か」のほうがよっぽど判断に難しい状態で、ちょっと考えたのですが需要ゼロなので書くの断念しました。

(深夜に思いついたものをメモしていたら2,000文字超になっていて、私のなかのもったいないお化けが出てきて結局仕上げてしまいました。深夜だめっすね。深夜のラブレターも使い物にならないっていいますもんね)

 

 

【反省点】
読み返して思いましたが、
「相手のことが大切か」で判断する、から、
「相手のことをもっと知りたいと思えるかどうか」が突然追加されて話が移り変わってしまってますね。
最初からこの2つを軸にして書けばよかったのですが、失敗しました。
でも修正に時間を割くほどのものではないので放置いたします。すみません以後気をつけます。

 

 

 

 

 

■ 次の「なんでこれ書いたんだろ?」記事はこちら!

『「自分は変わっている」だなんて思う必要はひとつとしてない』

(本文中には書いてませんが合コンで「私変わってるからぁ~」をひたすら聞かされて怒りを思い出して書いた話)

 

 

 


読んでくださってありがとうございました

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