人の心に刺さる文章はいかにして書き得るか 試行錯誤編

 

「読んだ人の心に刺さる文章が書きたい」

 

こんな欲求は、ブログなど文章を書く者なら一度は抱いたことがあるのではないか。

 

ビジネスメールなど仕事で文章をつくる際にはこんなこと思わずとも、「内容が正確に簡潔に伝わること」を念頭に置いて書くべきだが、ブログのような「読むか否かが読み手にゆだねられているもの」である場合、

  • 人の心に刺さる文章
  • だれの心にも刺さらないふわっふわの文章

のどちらがいいかと聞かれたら、たいていの人は「人の心に刺さる文章」と答えるのではないか。

(まったく公平でない問いだが)

 

そうは言いつつ「『毒にも薬にもならない文章』が自分の持ち味」という人がいればどうだろうか。人柄のよさ・優しさが出るという意味で。

いや優しさのにじむ文章であればそれは「薬になる(癒やしになる)文章」であって、毒にも薬にもならない文章とは似て非なるものだろう。

人間というものが誰しもさまざまな特色を持つものであるのに、その人の書く文章が『毒にも薬にもならない文章』になっているのであれば、それはやはり「自分の色」を出し切れていないのではなかろうか。

 

結論はまったく出ていないのだが、「人の心に刺さる文章ってどうやって書くんだろう」と考えたことを書いてみる。

なお、『明日死ぬと思って生きなさい。 永遠に生きると思って学びなさい ガンジー名言』に続き、まじめな文なので「だ・である」口調で書くが、まじめでない箇所も多々あることを前もってお詫びしておく(誰にだ)

 

人の心に刺さる文章はいかにして書き得るか

 

人の心に刺さる文章を書きたい願望

そもそもなんで「読んだ人の心に刺さる文章が書きたい」などということを考えはじめたのか。

それは自分がこのごろブログへの向き合い方に悩んでいるからだ。

 

独立した当初は、

  • とにかくどうにかしてお客さんを増やさないといけない
  • 愛する妻にも蹴られ逃げられひとり孤独死するかもしれない
  • とりあえずブログを書きつつ、実際にも動いて営業しよう

などと考え、妻に見限られないよう必死になってブログを書いていた。

 

それが本当にありがたいことにどうかこうかやっていけるようになって、次のフェーズに入らなくては、と考えるようになった。

フェーズってなんだろくに英語をしゃべれないくせに横文字使いやがって。

調べたら「段階」「局面」ということらしい。

ということで、当初の「とにかく更新しよう」からもう一段上がった向き合い方がないかと模索するようになった。

 

ブログを書く必要性

しかし私の場合、「模索しよう」と考えたらなぜかブログが書けなくなった。

 

なぜ書けなくなったのか。決して「まあ書かなくてもいいや」と思ったということではなく、

  • 常にタネを蒔いておく必要がある
  • 知ってもらう努力を怠ってはいけない
  • 単純にブログ書きたい

という必要性や気持ちは常に頭や胸に抱いていた。

 

なら書きながら次のフェーズとやらに入る努力をすればよいではないか。

そうお叱りを受ければシュンとするばかりだが、かっこつける必要が薄れたので正直に言うと、私は非常に要領が悪いし時間管理がまじくそ下手なので、まあうまくできなかった。

あまり考えなくても書けるくだらない話が増え(この「100メガ」を作ったのもそう)、くだらない話を書くのは大好きだがそれだけでもしかたあるまいと考え、一旦もにゃもにゃ考え出すとまあとにかくうまくいかなかった。

 

意外とそれなりの結果が出た

また、当初の想定より意外とPV数を集めることができたのも大きいと思う。

 

事業計画や目標などをつくるとき、

  • 楽観的な数値
  • 現実的な数値
  • 悲観的な数値

とそれぞれ想定しておくのはよくあることだが、楽観的な数字には届かなかったものの、比較的それに近い数字には到達することができた。

(Google先生におびえているので具体的な数字はすみません)

 

私のPV数なんて世のブロガーのみなさまからすれば貸倒引当金の端数のようなもの(税理士業界ジョーク)だが、

「意外といけたな」

と小生意気にもむだに「なんとなくやりきった感」を抱いてしまった。

 

これはそもそもの目標が低すぎた、野心が薄かった、ことが原因だと思うが、

「10,000やら30,000やらのアクセスがあって想定どおりの成果につながっていないのは、導線ができていないから」

という言説も聞き、やはりこういうところでも「ただひたすら更新、ではなく別のやりかたを目指さないといけないんでは」と考えるのに影響を及ぼした。

 

 

習慣化してブログを書くことの効用

ところで、

「ブログは半年は続けて、かつ100記事書け」

というのは、論者によって異なる数字ではあるものの、ブログの世界ではまあ言われることである。

私もこれには大いに賛成で、

 

 

という「習慣化してとにかく書く」のはブログ開設当初(本当は現在の自分くらいでも)には取り組んだほうがいいことであると思う。

しかしその一方、私としては、

 

 

ただひたすらに書くよりも、「毎回課題を持ち、自分の主張(思い)を言語化し、意識を持って書く」ほうが成長に貢献すると思っている。

 

誤解してもらいたくないのは「習慣として書く」だけでも絶対に成長する、とも思っている点だ。

 

 

グラフにするとこんな感じ。

ただ毎回課題を持ち、考えて書くことはもっともっと成長に貢献するのでは、ということだ。

 

そしてこの差は、このグラフのように段々開いていくのでは、と思っている。

(なんかカクカクしているのはご容赦を)

 

これは私が小学生のとき習っていたピアノで、週に1度先生と一緒に弾くだけでろくに練習もしなかったとき、

  • 嫌々やっていたわりに、続けることでそれなりには弾けるようになった
  • しかしまじめにやっていた子とは天と地の差が開いた

という乏しい経験から来ているもので、学術的な論拠などはまったくない。

 

ないのだが、私としては、より成長するために、時間に追われて書くのではなく毎回課題を持ち考えながら書いていきたい、そうして読んでくださった方の心にひとかけらでも何かを残したい、と思っている。

 

思ってはいるが、しかし勘違いしてはならないのが、

考えすぎて結局書けなかったら経験値はゼロのまま

ということだ。

 

 

ちなみに書かない場合のグラフは当然こうなる。

 

私は現在この状態に陥っている。

諸兄はこうならないようゆめゆめ本質を見誤らないでもらいたい。

(いえ反面教師的なあれです)

 

思いの言語化の必要性

話が行きつ戻りつして申し訳ないが、冒頭に挙げた

「どうやったら読んだ人の心に刺さる文章が書けるのか」

である。

 

これに対して個人的な考えを述べると、

  • 書く前に毎回課題を設定する
  • あるいは自分の思いを明確に言語化する

ことは最低限必要なのではないか、というのが現在の私の考えだ。

 

たまにこういった工程を踏まないでも書ける方もいらっしゃるように思うが、それは、

  • その問題に対して常人よりも強い思いがある
  • 文章で心情を表すことに長けている
  • 人が言葉にできないこと(モヤモヤ)を、うまく言語化できる

というような思いの強さや能力が多少なりとも必要なのではないか。

 

私にはそのどちらもないので、いま試しているのは「自分の思いを明確に言語化すること」だ。

『ブログを書くときはマインドマップで下書き! ブログの書き方一例』でも書いたことがあるが、私はマインドマップを使ってブログの下書きをすることが多々あって、少し前に「この記事を書くにあたって、どんな思いがあるのか」という軸になるものを毎回定めてから書こう、と決めてみた。

そしたらまあ思いつかないこと思いつかないこと。

「おれ、こんなに何も考えずにプログを書いていたのか。そりゃ書けなくなるわけだ」

というのを自分なりに感じ、さらにまた書けなくなるという悪循環に陥った。

 

そうして見ると、この「自分の思いを明確に言語化すること」は失敗かもしれないわけだ。

ただ、失敗かもしれないわけではあるが、どこかの本に書いてあるようなきれいな経営論や、日記のようなもの、私の好きなくだらない話、だけでは自分が望む成長が果たせない(自分の理想に近づけない)気がするため、試行錯誤をしている。

このみっともない右往左往がだれかしらの役に立てば幸いである。

(立つのか)

 

「本音で、批判をおそれずに書け」とは言うが

そういえば、「本音で、批判をおそれずに書け」という言葉もある。

「批判をおそれない」という部分は非常に重要であるとは思うのだが、あえて「本音で」を強調するときは、「普段言えないけど今回勇気を持って言いまーす」というときでもあると思う。

私のなかでは「あえて『本音で』って強調したくなるようなこと、そんなにたくさんあるかな」感が生まれ出て、何度か試してみたことはあるが、続けることができなかった。

 

それは、多分、

「本音で書く = 多少口調が乱暴になり、特定の人間への攻撃・批判が含まれるときでも気にせず書く」

という感じが一部(あくまで私の感じる一部)であることへの抵抗でもある。

 

「本音で書く」からって別に誰かをあえて傷つける必要もないんでは、とも思うのである。

決して「誰ひとり不快にしない文章がよい」と言いたいわけではない。

多少なりとも主張があれば、その主張に合わない人を不快にさせること、「え、それ違うんじゃね?」と思われることは避けられないだろう。

だがそれと「だから人を不快にしても問題ない」は決してイコールにはならない。

「人を不快にしてしまうことも覚悟する」と「人を不快にしても問題ない」とを区別したい、ということだ。

 

私がブログを教えてもらった方に私淑している要因のひとつは、「むやみに人を攻撃・批判しないから」だ。

そういう評価基準があってもいいのでは、と思っている。

尖った文章を書けばその分「人の心に刺さ」りやすくはなるだろう。

しかし同時に「文章の美しさ」「言葉のやわらかさ」を失う。

であれば私が目指すべきは「人の心に刺さる文章」ではなく、「気づけばだれかの心に残っている文章」なのかもしれない。

 

このあたり誰かに共感してほしいとは思わないが、まあ両立できないものかと試行錯誤しているわけである。

(もちろんマイルドになる分、印象に残りにくくなる)

ちなみに私は何度か、以前の職場の特定の人物を批判する文章を書いている。

本文は理想であり、考え方が変わる可能性もあり、かっこつけが多分に含まれているので、そこは大幅に差し引いてお考えくださいませませ。

 

 

 

おわりに

相も変わらずとりとめのない文章を書いてしまった。

 

師には「ブログ書けてないとか書かんでいいがな」と教えてもらったので、しれっと更新しようと思ったのだが、今回はテーマがテーマなので正直に「書けてないっす」と書いた次第である。

今後は書けてなくてもしれっと更新する。

「毎日更新してますよ」ぐらいのテンションで更新する。

私決めた。そうする。

 

「1日のうち、必ずブログと向き合う時間はつくる」

と決めてはいるのだが、書けてないとほんと逃げたくなるのでダメね。

習慣化の効力を実感しつつ、めがねはもがく。

我はもがきめがね。

 

 

 

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