自分が一日に書ける文章の量とは? 3年後にいっぱしの漢になっている己へ

 

ごきげんよう。めがね税理士の谷口(@khtax16)である。

 

書いていいのかわからないが、とある雑誌への、税制改正大綱の解説記事の執筆依頼を頂戴して嬉しくなっている。

有頂天になっている。

 

もちろん先日の事務所サイトに書いたブログも力をつくしたのであるが、報酬を頂戴するとなればもっともっとわかりやすいものにしないと、と図解をてんこもりにすべくせっせとつくっている。

ターゲット(想定読者)が違えば書き方や書く内容を変えるのは当然であるし、噛み砕きすぎず堅苦しすぎず、といった塩梅(あんばい。「しおうめ」ではない)が重要である。

 

ところで、そのように雑誌の原稿などを進めていると、文字を書くことに対して「今日はもうおなかいっぱい」と思うことがしばしばある。

これに加えてブログを書くとなると、もう「なんかおれ一日文字ばっかり書いてね ?」という気にさえなる。

(言うほど書いてません)

 

わりと文字を書くのは好きなほうだと思っていたのだけど、その人が一日に書ける文章の量というのは案外決まっているのではないか。

単純に「何文字」ということではなく、書いては消した試行錯誤も含めての「文章の量」だ。

もしそうであるなら、「土日にまとめて書いてしまおう」というのは怠惰の極み、計画性の欠如の現れであって、きっと少しずつ着実に進めていくのが一番なのであろう。

実際いま頭がパンパンで、こんな中身のない文章ですら書くのに苦心している。

 

つくづく10冊以上の本を出しつつ毎日ブログを更新している人は化け物だなと思う。

ほんの1mm近づくと、はじめてその距離の遠さが理解される。「あれ、こんなに遠かったの? いままで見ていた背中は蜃気楼?」となる。

理解できるようになっただけいいのか。しかしいま見えている背中もまた「蜃気楼」かもしれぬ。しかも進むのは自分だけではない。自分以上に相手が進むことも多い。

ただそれらが真実であるとしても、同時に神格化してしまうのはよろしくない。

「彼は人なり、我も人なり」

である。

夏目漱石も『草枕』で

「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。」

と言っている。

3年後には私も「あいつもなかなか、ううーむやりよる」「あれ、あのめがね蜃気楼?」と思われるぐらいの漢(おとこ)になっている予定である。

(しかし独立してから3年後だったらあと1年半だから結構やばい)

 

きっと書きつづけることには、この「一日に書ける文章の量」が増えてくるという効果もあるのではないか。

というとりとめのない話を頭がパンパンのままして終える。

走ってこよっと。

 

(今日23日で、12月は80kmになる予定。目標の月100kmまであともうちょっと!)

 

 

 

 

 

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