こんにちは。おじさんのポエム大好きめがね谷口(@khtax16)です。
私、大泉洋さんが結構好きなんですが、『恋は雨上がりのように』という映画に出演されているということでなんとなく気になっておりした。
そしたらAmazonプライムビデオでアニメのほうの『恋は雨上がりのように』が見られるというんで、
「とりあえず仕事しながら見てみようかな」
と思ってましたら まあ面白くてズブズブとハマってしまいました。
そんで思わずその勢いで、原作であるマンガも全巻(10巻で完結ずみ)買ってしまいました。
マンガもめちゃくちゃ面白かった です。
面白かったんですが、正直に申し上げますと、最終話について少しもやもやとしたものを感じたこともあり、どうして自分がそう感じたのか、整理するために感想を書いてみます。
書いてたらなぜか自分の熱が高まってしまい、めちゃくちゃ長文になってしまったのでご注意ください。
(あと、結局実写映画はまだ見ていません)
目次
マンガ『恋は雨上がりのように』レビューと、ネタバレを含みつつ自分が受けた印象についての整理
「恋は雨上がりのように」のあらすじ・概要(ネタバレほぼなし)
最初はネタバレなしで、ざっくりと話の流れだけを解説しておくと、
(出典:恋は雨上がりのように 1巻表紙 眉月じゅん)
この子、高校生である橘あきら(17歳)が、
(出典:恋は雨上がりのように 1巻 第3話 眉月じゅん)
このおじさん、あきらのバイト先のファミレスの店長、近藤正己(45歳)に恋をする、という話です。
おじさんは作中「店長」と呼ばれるので、店長で進めますが、この店長は、
- ちょっと寝癖がついてて
- たまにチャックが開いてて
- 後頭部には10円ハゲがついてて
- くしゃみが大きく
- 言動がもろにおじさん
- こどものいるバツイチ
ということで、ここだけ見ると「はいはい、おじさんが女子高生に好かれちゃって困っちゃうっていう、現実にはあり得ない話ね」と思われてしまう可能性があるかもしれません。
これはタイトルが『恋は雨上がりのように』になっている影響もあるのかもしれませんが、10巻まで読み通したうえで私が感じたのは、これは「恋愛が主軸の話」というより、恋愛をきっかけとしているけれども、それ以上に
「挫折から立ち上がるまでの話」
がメインのテーマなのではないかということです。
(作中で二人はキスさえしません)
「雨」を題名に冠しているだけあって、作中では重要なシーンでいつも雨が降っており、「雨やどり」のような雨に関する言葉がたびたび出てきます。
つまり、「挫折から立ち上がるまでの話」という表現をより本作の雰囲気に合わせるなら、
「つらくて立ち上がれないときに、長い、長い雨やどりをして、雨上がりにまた歩き出すまでの話」
と言い換えることもできます。
どんな挫折があるのか 陸上と文学
「そもそもどんな挫折があるのか」についても話をしておきますと、あきらは陸上部のエースだったのですが、怪我(アキレス腱断裂)の影響で走ることをやめてしまいます。
走ることが大好きで、結果も出していたのに、高校生になって怪我の影響で走れなくなってしまったあきら。
Amazonのあらすじなどを見るとあきらが「クール」と表現されていますが、いかにもマンガ的な不自然な感じではありませんし、なにより陸上に関することには感情をあらわにする場面が多く、彼女の未練、あるいは執着が一貫して感じられます。
一方で店長のほうにも挫折があり、店長には昔書いていた小説(文学)で結果を出すことができず、年齢を経るにつれ書かなくなっていってしまった、というものがあります。
ふたりが関係を少しずつ深めていくにつれ、お互いの挫折と少しずつ向き合うようになっていきます。
「恋は雨上がりのように」マンガとアニメの違い アニメのほうが万人受けはするか
冒頭でも書いたように、私はAmazonプライムビデオでアニメを見て、マンガを見ました。
(マンガは10巻で完結ずみ)
そのうえでこのふたつの違いを言いますと、
- アニメ ⇒ 「二人」の挫折を主軸に据えている
- マンガ ⇒ 「あきら」の挫折の割合のほうが大きい
と、私には感じられました。
(たぶん見る人によってかなり変わる部分です)
この理由は後半の「ネタバレ編」で書きますが、未読の方で単に「いい話」を見たいという場合にはアニメをおすすめ します。
これは、マンガの最終回がかなり賛否分かれる であろう結末になっているからです。
(私は面白く感じましたが、最終回のときその終え方に炎上したそうです)
アニメの最終話はふわっとした、いい感じで終わっており、見終わったあと私は単純に「面白かったなあ」と思いました。
一方マンガのほうは、言葉にできない切なさと、苦しみと、「でもそうなるしかないのか」という言い聞かせと、という感じでかなり悶々としました。
ただ 爪痕が残ったのは間違いなくマンガのほう であり、感動うんぬんより「面白いものを見たい」という方にはマンガのほうがおすすめできる、というのが私の意見です。
「恋は雨上がりのように」完全ネタバレつき感想
さて、というのが「恋は雨上がりのように」の概要とざっくりした感想でした。
以下は完全にネタバレ
になっております。
私は未読でもネタバレそんなに気にしない派(ネタバレの有無があまり関係ない作品が好き派)なのですが、ネタバレを気にされる方は読むのをやめていただければと思います。
全然関係ない私の短歌の感想リンクでも貼っておきます。
⇒『〔短歌・日経新聞〕穂村弘さんのコメント毎回かっこよすぎ問題』
一応間をあけておきます。
ここからネタバレ開始 ですのでご注意くださいませ。
最終回と、そこに至るまでの二人の違い
ネタバレなので遠慮なく書くと、マンガの最終回で二人の関係は明確に終わります。
(付き合っていたわけでもないので、「別れる」にもあたらない)
まっすぐなあきらの想い、自分がもうずっと前になくして、思い出しもしなくなっていたその輝きに、店長はどんどん惹かれていき、後半は店長も想いを寄せていきます。
とはいえ自分は45歳のおじさん。
文学への挫折をはじめ、なにかを成し遂げたという自信もないため、特に序盤はあきらを遠ざけようとします。
「彼女が戻るべき場所はどこなのか」
それが当初から店長の考えていた一番の関心事であり、
「少なくとも、自分のところではない」
というあきらめが店長のまわりにはつきまとっています。
「彼女は、また走りたいと思っているのではないか」
「自分とは違い、彼女はまだ十分に間に合う」
そんなふうに常に彼女のまっすぐな輝きに目を細めています。
二人の別れの日、店長は「今日のこと、俺、きっと一生忘れないんだろうな」とつぶやきます。
それを聞いたあきらも、「あたしも忘れません!」と主張するのですが、店長は
(出典:恋は雨上がりのように 10巻 第81話 眉月じゅん)
「橘さんは忘れたっていいんだ」と答えます。
特に最終巻(10巻)では、こうした「二人の見ているものの違い」が随所に出てきます。
個人的に一番感じたのが、10巻では二人それぞれが「もし二人が同じ年で、同じ高校に通っていたら」という空想をします。
(出典:恋は雨上がりのように 10巻 第76話 眉月じゅん)
店長側の空想 で、あきらは「雨がやむこと」を願っています。
一方あきら側の空想では、
(出典:恋は雨上がりのように 10巻 第77話 眉月じゅん)
と、あきらは自分に「雨の日もたまには悪くない」と言わせています。
これが個人的にはものすごく象徴的に感じまして、この作品のテーマが「雨上がりまでの雨やどり」であるとするならば、あきら側の空想で、あきらは現状にとどまりたがっています。
つまり、自分は怪我をしてしまったけど、代わりに大切なものを見つけたし、それでいいんだ、という気持ちです。
一方店長の空想で、あきらは「雨がやむこと」を願っています。
これがまた、自分が勧めるのではなく、あきらが言っているのがポイントで、店長は
「あきらは本当は雨がやむこと、また走り出すことを願っているはずだし、そうすべきだ(たとえ、二人で過ごすこの時間が終わってしまったとしても)」
と考えていることの象徴であるように私には感じられました。
(シーン的には、このあと「雨がやんでほしくない」という店長の本音も描かれています)
このマンガでは、一貫して
- あきら ⇒ 自分の感情と言動が基本的に一致している
- 店長 ⇒ 自分の感情も認めるものの、それはそれとして「大人としてどう接するべきか」を基準として行動している
という二人の違いが見て取れました。
この違いがまた「若さ」ともリンクしていて、すごく人間的だなあと私はとても面白く感じました。
マンガ「恋は雨上がりのように」最終回になぜもやもやしたものが残ったか
というように、最終回までは登場人物たちがすごく人間らしく生き生きと描かれていることにのめり込んでいたのですが、最終回であまりにも明確に二人の関係が終わってしまった ことに、正直言って私はもやもやとしたものが残りました。
「年齢差もあるし、しかたないよな」とは思いつつ、なぜ自分がこんなにももやもやしているのかを言語化してみたい、と思ったのがこの記事を書こうと思ったきっかけです。
「ほかの人はどうなんだろう」と思ってネットを調べたのですが、評判の中に、
「女子高生とおっさんがくっつくのは今の時代問題があるから逃げたんだ」
「作者が本当に描きたかったのは別の結末に違いない」
といったものがありました。
これは私個人の感想ですが、『恋は雨上がりのように』という題名や、当初からの二人の描き方を考えると、最初から「二人が最後に別々の道を歩いていく」ことは決まっていたんじゃないかなあ、と思っています。
しかしではなぜもやもやが残ったのか。
これに対して、まず私なりの感想を率直に言うと、
「あきらと店長、二人の物語だと思って読んでいたのに、あくまであきらの物語であったことを感じてしまった」
と表現できます。
この作品のテーマが、もし「雨上がりまでの雨やどり」であったとするならば、挫折したあきらが降りしきる雨のなかしばらく休むことを選んだのは、大きな木の下であり、その大木が店長であった、ように私は感じています。
上で『マンガでは「あきら」の挫折の割合のほうが大きい』と書いたのはこのためで、たしかに店長は「昔書いていた小説への情熱を取り戻す」ということが、あきらとの出会いを通じて得たものとして挙げられますが、役割としてはあくまで「あきらが再び走り出すまでのきっかけ」が大きいように思うのです。
降りしきる雨からあきらを守り、あきらのことを考え、自分の想いよりもあきらが行くべき方向を示してあげる。
そうして雨がやんだら、「もう雨はやんだよ。君は自分で歩けるだろう」と声をかけてやる。
「自分のことは忘れてもいい」と。
「忘れるものなんだ。それでいいんだ」と。
店長があきらにしたのは一度のハグだけで、得たものがたくさんあったとしても、二人があまりにも明確に関係を終えたことで、二人がともに雨やどりしていたのではなく、店長の「あきらを雨やどりさせるという役割」を強く感じさせる結末になってしまった。
それが自分がもやもやした原因なのかもしれない、と書きながら考えました。
1回目に読んだときはそこまで思ってなかったのですが、この、
(出典:恋は雨上がりのように 10巻 第81話 眉月じゅん)
最終話直前のあきらの
「雨やどりしてただけだよ。もう大丈夫」
という言葉と表情がものすごく美しく描けていたからこそ、感動もしつつ同時に「これは二人の物語というより、あきらの物語だったんだな」ということも感じてしまったのでした。
(私の性別と年齢(33歳男性)からどうしても店長目線になってしまう、という影響も大きいでしょう)
ではどんな結末なら納得できたか(余談)
そもそもこの解釈が合っているかわからない、というより現時点での私がそう解釈した、というだけの話ですので、時間が経てば変わる可能性もあるし、この作品がすごく心に残った ことには変わりがありません。
ただ私としては、こうして言葉にすることで自分が感じたもやもやについて簡単な整理をしたかったのです。
以降まったくまとまりがない のですが、「ではどんな結末なら納得できたのか」も余談的に考えてみたいと思います。
まず二人の関係が終わるとしても、店長にももっと変化があったとしたらどうなのか。
作中では、店長がまた小説を書きはじめたにしろ、今後はわからないながら特段結果を出したわけでもありませんでした。
これが「受賞!」みたいに明確な結果につながっていたらどうだったか。
「それぞれの道を歩きだした感」はありますが、受賞すればすべてうまくいくわけでもないし、さすがにご都合主義的な面は否めません。
では二人が逆に明確にくっついていたらどうだったか。
最初のほうでも書いたように、私はこの話を「挫折から立ち上がるまでの話」という捉え方をしているのと、二人の距離感がとても好きだったので、あんまりキスがどうのといった生臭い話をしてほしくないなあ、というのが正直なところです(わがまま)
で、もっとシンプルに考えたのが、二人がこの距離感のまま時間が経ったエンディングだったらどうなんだろう、ということです。
想像してみると、個人的にはこれが一番しっくり来まして、店長は小説を書くけど結果は出ていない、ファミレスの店長もつづけている。あきらは陸上に復帰してがんばっている。お店も辞める。ときどき、会って出かける。
二人が喫茶店を出ると、夏の通り雨が地面を濡らした跡がある。
見上げると、濡れた空が青く濃く輝く。
「雨、上がったね」
みたいな、くっついたとも明言しない終わり方です。
(あくまで私個人の意見です)
と、ここまで書いて思ったのが、私のもやもやの原因のひとつは、店長があんなにもすっぱりと身を引くほどの理由が完全には呑み込めていない点にもあるのかもしれません。
あの最後の日についてはいいんです。
あのまま二人で家に戻ってしまえば、たしかに帰せなくなってしまっただろうし、そうするとあきらは陸上に戻れなかったかもしれません。
「誰かを許せない」と思うほどの強い気持ちが、自分からなくなってしまったこと、その距離の遠さを感じたこと、それもすごく理解できます。
でも、どれもあんなにも明確に関係を終えるほどのものではないんじゃないか。
恋と夢はトレードオフ、どちらかを取ればどちらかがなくなる、という性質のものではないし、二人がひとつのことしかできない不安定さがあるようにも感じ取れなかった。
(むしろ、一緒にいることで安定するように感じてしまった)
そのことに自分なりの答えが出ていません。
最後に店長が何を言ったのかも明確になっていないけれど、あのあきらが納得するほどはっきりと気持ちを伝えたのでしょう。
「クビを伝えた」という意見もあったけれど、それだけであきらの「雨やどりしてただけ」につながるとは思えません。
(個人的には、本当にあの日が最後だったわけではなく、シフトが入っている分のバイトは出る、とか、制服を返す、ぐらいの接触はあったんじゃないかと思っています)
スピンオフないのか(余談2)
この作品、タイトルが『恋は雨上がりのように』だったわけですが、昨今のマンガではめずらしいと言ってもいいほど、主人公を含めまわりのキャラクターもみんな恋が実りません。
(はるかだけ少しいい感じになりそうな雰囲気はありましたが、その後は一切話に出てこない)
吉澤くんが西田さんを振った理由も掘り下げられなかったし、加瀬くんのお姉さんとの話も妙に中途半端な感じで終わってしまいました。
特に吉澤くんは、おばあちゃんに会わせた日の描写と結果が一致してなく、最終話でもなんとも言えない表情をしているので、裏の話があるように感じました。
私は「みんながみんなうまくいく」という話があんまり好きじゃない(しかも周囲の人間同士でくっつく)のですが、ただ本作は作者さんのなかでそれぞれストーリーがありそうな気がするので、スピンオフ的なのないのかなーとちょっと思っています。
この「みんな恋が実らない」というのが、『恋は雨上がりのように』というタイトルと照らし合わせると、作者さんの「夏の雨上がりのように、消えてしまった恋」ということへのこだわりがあるように感じました。
しかし「雨上がり」の言葉で想像するのって、わりとポジティブなイメージである人が多いのではないでしょうか。
忌野清志郎さんの曲で『雨上がりの夜空に』があったり、the pillowsの曲で『雨上がりに見た幻』があったり、少なくとも私にはマイナスのイメージがありません。
(それこそ陰鬱なイメージを持たれがちな「雨」が上がるわけですから)
ただ作者さんは「雨上がり」という言葉に対して、ネガティブとは言わないまでも、「消えてしまう」に似たイメージを持っているのかもしれない、という気がしました。
そして『恋は雨上がりのように』というタイトル・テーマに引っ張られすぎてしまったようにも……(邪推ですが)
個人的に好きなシーン(余談3)
もうほんと余談がつづくのですが、個人的にものすごくきゅんとしたシーン。
(出典:恋は雨上がりのように 10巻 第79話 眉月じゅん)
「もう帰らなきゃいけない」が、大雪の影響で「帰れない」になりはしゃぐあきら。
たぶんすごくいとおしさが湧いてきて、だからこそ「帰せなくなる」と気づく店長。
同じ事実に対しても、二人の受け取り方がまったく違っているのがいいなあと。
あと、あきらが風邪の店長をお見舞いしたときのシーン。
(出典:恋は雨上がりのように 4巻 第25話 眉月じゅん)
マンガ版もすごく感動したのですが、このシーンに関してはアニメ版がめちゃくちゃよかったです。
このシーンの演出と音楽と、たぶんオリジナルで追加された おじさんポエムが非常に胸に響きました。
結構唐突にポエムる感じが非常によかった。
おわりに
というわけで、余談以降まったくまとまりがなくなってしまいましたが、『恋は雨上がりのように』の感想や、もやもやした点を自分なりに整理してみました。
いろいろ書いてますが、切なく響いた ものすごく胸に残るマンガ でした。
なお、当記事において、引用の範囲と考えてペタペタ画像を貼っていますが、著作物との主従関係を明確にし、出典は必ず巻数と話数を含めて明記する等、著作権法を私なりに解釈したうえでこのような記載としています。
もちろん私に権利があるわけではまったくありませんので、当記事からの転載やリンクを貼るのはお控えください。
(ときどき画像にリンクを貼ってくる輩がいます)
気になった方はぜひ読んでみてくださいませ!
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